昭和の時代、三津には映画館が5軒、ボウリング場が2軒ありました。私の記憶に残っているのは映画館2軒とボウリング場2軒。
しかし、それより銭湯がとにかくたくさんありました。もちろん当時は古い家も多く、内風呂が少ない時代ですから、みんな銭湯に通うのがあたりまえでした。
小学2年生まで祖母に連れられて女湯に入っていたものですから、同級生の女の子に会ったりなどは、しょっちゅうでした。もちろん当時は意識もしていないし、何とも思ってなかったです。3年生以後は一人で男湯に行きますが、逆にお父さんと一緒にはいってくる同級生の女の子もいました。本当に大らかな時代でございました。
その銭湯ですが、私が知っているかぎりで三津には、福助湯(心斎町)、だるま湯(神田町)、やなぎ湯(住吉町)、菊水湯(住吉町)、朝日湯(朝日通)、玉の湯(三津2丁目)、ともう1軒が思い出せませんが、同じ町内の幼なじみと全部制派していました。古三津や高浜方面にも何軒かあったようですが、川を越えてまでは行かなかった。
で、私たちが日常的に利用していたのが、近所にあった福助湯(写真)。

風呂桶には石けん、シャンプー、タオル、水中メガネ、スーパーボール、時にはみかん等々、何しに行きよん的なフル装備で、夕食後から閉店の10時まできっちり遊んでいました。もとい、入浴していました(笑)。
客がいなくなるとスーパーボールが炸裂し、知り合いのおじさんが入ってくると、私が電機風呂に入り、入っていない友達と手をつなぎ、そのおじさんの肩に手を置くとしびれるという悪さをしたりと、まさにお風呂天国。
しまいには風呂屋のおばちゃんが「あんたらいつまで入っとんぞね、もう帰って」と怒られる始末。しかも、怒られたのは、20回や30回ではありませんでした...。今では神田町のだるま湯だけが唯一残っていますが、それ以外のお風呂屋さんは全て無くなってしまいました。
地元の人たちが挨拶し、汗を流し、様々な話しや笑い声が聞こえ、それこそお風呂屋さんというのは、まさに裸の付き合いと言えるコミュニケーションには最適の場所だったと思います。内風呂に変わってそういった習慣がなくなったのもまた事実ですよね。