かつて三津には「溌々園」という料亭がありました。柳原極堂も「友人子規」のなかで、「今の三津遊廓稲荷新地の北裏堀川畔にあって溌々園とも称せられし料亭のことにて、子規は此処に数回遊びしことあり」と記しています。
以前、愛媛新聞で同料亭の写真付き絵はがきが歴史博物館(宇和町)に所蔵されてことが調査で判明したとの記事が以下のように掲載されていました。
溌々園は明治22年、現在の松山市住吉2丁目の三津浜内港付近で開業。海水を敷地に引き込み、タイなど料理用の生魚を飼っていたため〈いけす〉の愛称で呼ばれた。明治末期には廃業したとされ、写真などは確認されておらず、研究者の間では〈まぼろしの溌々園〉とも言われていた。松山市立子規記念博物館によると、子規は東京の学生だった二十歳ごろから二十代後半まで、帰省のたびに来訪。酒宴や句会を開き、その様子を文章や句に残している。
子規はこの溌々園に、柳原極堂、秋山真之、河東碧梧桐、高浜虚子、他と計9回訪れています。「子規全集 第22巻所収」の「年譜」には。明治23年1月23日(木)故郷を発ち上京の途につく。松山駅より見送りの友人たちとともに列車に乗り込み、三津で下車、予定の(平穏丸)が着港していないので、新浜のいけす(溌々園)へ行き、塩湯に入り晩餐をとる。と記されています。前に梅津寺の塩湯の記事(その15)を掲載しましたが、このあたりには昔から塩湯の文化があったのかも知れませんね。
他にも記録が残されていますが、明治23年1月5日の新年会は秋山真之他と訪れており、とりわけ子規には思いで深い会食だったそうです。真之はひどく酒に酔い、子規に向かって「お前、学校を卒業しても教師にはなるなよ。教師ほどつまらぬものはないぞい。しかしこうやってお前が生きているのは不思議だ」などと言ったそうです。
子規はこの宴会があった年から12年後の明治35年9月19日、35歳という若さでこの世を去ります。子規なじみの料亭、三津の溌々園もあとを追うように三津の地から姿を消しました。しかし、写真が見つかったことで、人々の記憶にはのこります。こうやって歴史は継承されていくんですね。